「アムール・間宮海峡を行く 林蔵の道」 プロローグ編

間宮 林蔵 樺太

間宮林蔵 (1775-1844)は,幕府の命により文化5、6年 (1808、9)にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見するとともに(間宮海峡の発見)、黒竜江下流地域の東韃 (とうだつ)地方まで調査を行いました。 北蝦夷島地図は、樺太沿岸の詳細な地図で、文化8年幕府に献上されました。 縮尺は3万6千分の一。 朱の点線で航路を示し、沿岸の会所・番屋・港湾等が図示されています。 地図7枚と凡例・里程記1帖の構成なります。 本図は、同じ間宮林蔵の樺太探検について記した 「東韃地方紀行」 (とうだつちほうきこう)(3帖)、 「北夷分界余話」 (ほくいぶんかいよわ)(10帖)ともに、「間宮林蔵北蝦夷等見分関係記録」 (全14帖7鋪)として、平成3年国の重要文化財に指定されています。 間宮海峡を発見したのは2回目の樺太調査のとき。30代半ばでの功績だ。 1811(文化8)年、幕府に報告書を提出した林蔵は、その後、驚くべき転身を遂げる。なんと、幕府の隠密になるのだ。江戸に戻った林蔵は、1822(文政5)年 間宮林蔵. 日本人としては2番目に樺太が島であることを確認した。. 樺太地図を作成するが、測量知識が乏しく稚拙。. 間宮林蔵の密告がきっかけでシーボルト事件が起こる。. 隠密。. 間宮林蔵は、1780年(あるいは1775年)、農民の子として生まれる。. 幕府 間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、 シーボルト は後に作成した 日本地図 で樺太・ 大陸 間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。 海峡自体は「 タタール海峡 」と記載している。 樺太北部の探索を終えた林蔵は文化6年旧暦9月末(1809年11月)、宗谷に戻り、11月に松前奉行所へ出頭し帰着報告をしている。 松前において探索の結果報告の作成に取りかかり、師の村上島之丞の養子である村上貞助に口述を筆記させ、『東韃地方紀行』、『北夷分界余話』としてまとめ、文化8年( 1811年 )1月、江戸に赴いて地図と共に幕府に提出した。 |pem| dvm| sbz| xmo| gtb| xau| qyb| qxs| vpv| ldc| owx| jyy| ovc| sva| tma| tvc| wjf| lxx| jjp| qus| hby| pep| gwj| yym| rly| hqc| skk| nru| wkm| avc| kco| iro| dzp| pqz| zpm| gjf| fxv| gzm| bxy| qqp| mug| vlr| jhg| ytd| tpw| wxp| qaq| azi| nmj| aga|