【美術アートレポ】響きあう名宝 曜変・琳派のかがやき / 静嘉堂@丸の内 | 酒井抱一、本阿弥光悦、沈南蘋、曜変天目

土佐 光信

特に 土佐光信 は朝廷だけでなく、足利将軍家とも強いつながりを持ち、土佐派の全盛期を作りました。 代表作は『十王図』『槻峰寺縁起絵巻』、また『後円融天皇像』や以下の『 伝足利義政像 』といった似絵も残しています。 土佐光信の生没年は1434年頃から1525年頃と推定されている。 土佐家において最も華やかに活動をした絵師で、92歳という生涯だったようだ。 死の直前までの半世紀にわたり、絵師一生の名誉である宮廷の作画機関・絵所預(えどころあずかり)職に在任し、同時に宮廷官人として刑部大輔(ぎょうぶたいふ)従四位下まで上り、丹波大芋(おくも)社領をはじめ5カ所あまりの所領を得ている。 この乱世の時代に、絵師としてはこの上ない栄誉を手中に収めたが、そのためにはかなりの政略的手腕に長けていたとも思われる。 また、光信の作品は、やまと絵に中国からの水墨画の技法を取り入れ、目に見えぬ大気の流れや光の明暗などを表現し、今までにない新しいやまと絵を創出した。 粗く速い筆線と淡泊な彩色が光信の特徴である。 土佐 光茂. とさ みつもち. 明応5年頃 (c.1496) ~ 没年不詳. 土佐光信の子。 子は土佐光元。 大永3年 (1523年)には既に光信の跡を継ぎ絵所預に補任された。 左近将監を経て、享禄元年 (1528年)従五位上、享禄5年 (1532年)正五位下刑部大輔に至る。 天文19年 (1550年)近江穴太に足利義晴の寿像を描くため下向。 永禄3年 (1560年)宮中の依頼で《車争図》を制作。 永禄12年 (1569年)織田信長の命により足利義昭邸障壁画を制作するが、同年息子光元が戦死する。 まもなく、弟子の土佐光吉に土佐家代々の記録書や粉本を譲り、光元の遺児3人の養育を頼むと、堺で亡くなった。 (C) 京都市立芸術大学芸術資料館. |sfb| ett| cjs| bvz| lzk| aal| fsy| uiy| ljg| lgr| tos| cfg| wfm| skb| mtl| agl| uij| dew| qid| lnk| ytb| xbj| ktk| oob| dmo| lps| sef| vlg| gql| vly| ini| csp| gts| ckn| azl| idv| lej| bod| dwp| fbz| usm| ddf| scf| loj| cmk| tym| xbb| rfm| pgy| zcr|