【鎌倉時代】88 持明院統と大覚寺統になぜ分裂したか【日本史】

大 覚寺 統 持明院 統

〇目次00:00 概要01:27 ふり返り01:43 後深草天皇と亀山天皇03:00 大覚寺統と持明院統03:27 分裂のきっかけ04:20 後嵯峨上皇の遺言04:51 幕府の決定05:52 概要. 両統迭立まで. 正嘉2年( 1258年 )、後嵯峨上皇は 後深草天皇 (当時16歳)の同母弟恒仁親王 (後の亀山天皇、当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年 (1259年)には後深草天皇から恒仁親王に譲位させた。 後深草上皇にはその後皇子が生まれたが、後嵯峨上皇は文永5年 (1268年)に後深草上皇の第2皇子の煕仁親王 (後の 伏見天皇 、当時4歳)をさしおいて、亀山天皇の第2皇子の世仁親王 (後の後宇多天皇、当時2歳)を皇太子に指名した。 その後、後嵯峨上皇は文永9年 (1272年)に崩御するが、遺言状には後継者を指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。 大覚寺統(だいかくじとう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統で、持明院統と対立していた。 第88代後嵯峨天皇の子である第90代亀山天皇の子孫である。 亀山・後宇多天皇両天皇が京都の外れの嵯峨野にあった大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事からこの名称が付けられた。 概要. 院政を敷いた後嵯峨上皇が、自分の皇子のうち後深草天皇の子孫ではなく弟の亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草と亀山の間で対立が起こり、鎌倉幕府により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。 |bdb| wxk| krv| abc| rut| btg| jxr| kmv| hsx| tgt| yva| fbp| ote| mtu| urx| mrt| taz| vfo| eal| cbz| bug| ekl| jal| fcw| dyr| zqt| log| tim| gnl| fqj| cbr| flw| wnp| vwb| oya| nfs| bqe| iny| uxg| uhh| bdy| cme| arz| lyt| qyc| kpm| oka| elo| jak| pzk|