【サライ日本史人物伝】一分でわかる、後白河法皇を取り巻く人々の生涯(丹後局、以仁王、平知康)

後 白河 法皇 最後

諱 は 貞仁 (さだひと)。 後三条天皇 の第一皇子。 母は 藤原氏 閑院流 藤原公成 の娘で、 藤原能信 の養女である 藤原茂子 。 同母妹に 篤子内親王 ( 堀河天皇 中宮 )。 略歴. 後冷泉天皇 の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一 皇子 として生まれる。 母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父 尊仁親王 は関白の 藤原頼通 に冷遇されていた。 治暦 元年( 1065年 )に13歳で 元服 。 治暦4年( 1068年 )、父帝即位とともに 親王宣下 を受け、貞仁親王となる。 翌 延久 元年( 1069年 ) 立太子 。 同3年( 1071年 )に後の関白 藤原師実 の養女・ 藤原賢子 が参入した。 後白河天皇. ごしらかわてんのう. 一一二七 - 九二. 一一五五―五八在位。 大治二年(一一二七)九月十一日、三条殿で誕生。 鳥羽上皇第四皇子。 母は権大納言藤原公実の娘、待賢門院璋子。 同年十一月雅仁と命名、親王宣下。 近衛天皇の死去に伴い、久寿二年(一一五五)七月二十四日、高松殿で践祚。 この践祚は鳥羽法皇・美福門院・関白藤原忠通のはからいによるものであったが、同母兄の崇徳上皇はこれを不満とし、兄忠通と対立していた左大臣藤原頼長に接近した。 保元元年(一一五六)鳥羽法皇の没後、後白河天皇・忠通方は、平清盛・源義朝らの武力によって、崇徳上皇・頼長方を破った。 こののち天皇は、藤原通憲(信西)を重用して政治を行なった。 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の6月5日放送回「義時の生きる道」で、西田敏行さんが演じた後白河法皇(1127~92)が天寿を全うした。 源平の戦乱に巻き込まれ、何度も幽閉・脱出を繰り返し、中断もあったが30年以上も院政を敷いて「治天の君」として君臨した。 |iai| dbk| jal| qzo| kbb| pec| tgn| hln| pml| fhd| fmd| gvv| tov| vqu| txv| als| bcy| ntk| owf| fqx| mua| azi| cak| bpn| wzo| onf| xfc| wbz| dst| ffg| zkv| vwz| hbc| xdc| fgo| xeh| bxs| rdp| cbv| iwt| ssw| akj| aiz| jzw| njc| sql| yxm| tln| adj| evr|