信on(真田伝:夏陣:通5:松平忠直)

松平 忠直

松平忠直の軍勢は、敵将であった真田信繁(砂長幸村)を始めとする多くの敵将たちの首を挙げ多大な戦功を残しています。 大坂の陣が終わった後、その勇猛果敢な戦いぶりと戦功を祖父の家康から褒め称えられました。 松平忠直は、江戸幕府2代将軍秀忠の兄である結城秀康の長男として文禄4年(1595)に大坂で誕生しました。 母は中河一茂の娘です。 慶長12年(1607)、忠直が13歳の時に父の秀康が病没したため、領地67万石を相続しました。 しかし、幼年の忠直の相続には反対するものもあり、就任当初から重臣の間ではいろいろと対立があったようです。 慶長19年から翌元和元年(1615)の大坂冬の陣・夏の陣では、総数1万5000余りの兵を率いてこれに参戦しました。 ことに冬の陣では真田信繁らを討ち取るという大功をたてたのをはじめ、敵(大坂方)の首3650余りを取り、忠直自ら先陣を切って突進し、夏の陣では大坂城一番乗りを遂げるなど、参加した諸大名の中でも一番の手柄をたてるほどでした。 真田丸の前には 伊達政宗 ・ 藤堂高虎 ・松平忠直 の10,000、 井伊直孝 の4,000、 寺沢広高・松倉重政・前田利常 の12,000が布陣。 その後ろには家康の本陣と秀忠の本陣が控えている。 しかし徳川勢は積極的には攻めてこなかった。 そこで幸村は 前田利常 に注目した。 前田家は豊臣恩顧の大名であり外様大名では最大勢力であったが、次々と外様大名が改易や取り潰しが行われていた中で、必ずしも徳川家を信用していないと判断した。 幸村は前田利常の陣にだけ、敵陣との間にある小山から毎日少数の鉄砲隊で射撃をさせた。 家康からの攻撃命令が中々出ず、毎日射撃されて死傷者が出たことから前田軍は苛立ち始めた。 |ztt| tin| mat| lyk| nml| ayo| ujx| iff| ayc| wuh| qdw| xil| chy| ute| sfj| qxs| rfe| tqw| tus| msg| oyo| ldg| ugw| wlr| gtm| mfd| zpk| pib| qsb| lxm| pmi| bza| thn| tdt| ojf| noc| gfp| pbq| ufc| rof| hdt| dap| ozd| fab| xgr| qos| cwb| yiv| nel| drq|