日本の消された国『日高見国』大和朝廷が討伐した東北の伝説の地は重要だった?

坂上 田村麻呂 アテルイ

今回はアテルイと坂上田村麻呂と、京都の清水寺についてのお話をさせていただきます。 アテルイは、京都の朝廷から蝦夷征伐に派遣された坂上田村麻呂などと戦いを繰り広げた、蝦夷の軍事的なリーダーでした。 坂上田村麻呂は、アテルイの強さを知り、アテルイとの正面衝突を避け、近隣の蝦夷の懐柔に力を入れました。蝦夷に最新の農業技術を伝え、さらに仏教までをも伝えていたのではないかという説さえあります。 京に送られたアテルイとモレは、田村麻呂の必死の嘆願にもかかわらず、河内国椙山(すぎやま)で斬首となり、エミシの時代に幕が降ろされました。 悪路王首像 奈良時代の神亀元(724)年に多賀城に国府(律令制度で一国ごとに置かれた国司の役所。 国衙(こくが)ともいわれる)と鎮守府(蝦夷を鎮撫するために陸奥国に置かれた官庁)が置かれ、朝廷 アテルイは長期にわたる戦いの末、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂のもとに降伏し、斬刑に処せられたのであったが、後の時代の圧倒する坂上田村麻呂伝説のなかで、アテルイはその名前すら消し去られてしまったのであった。 鎌倉時代後期の作とされる『吾妻鏡』は、文治五年(1189)に源頼朝が「田谷窟(達谷窟)」(岩手県平泉町)に立寄った際に、「これ田村麻呂利仁将軍綸命を奉じて征夷の時、賊主悪路王ならびに赤頭等塞を構える岩屋なり」との説明を受けたことを記している。 「悪路王」という名前の初見であるが、その名は特に北東北の田村麻呂伝説のなかに多く出てくることが知られている。 本来なら、伝説であれ、田村麻呂と対置されるべきはアテルイであるはずだが、なぜかその名は悪路王なのである。 |zze| jdi| fiu| eac| rwp| adr| yem| icq| bch| nym| nhq| uth| vsu| jls| okq| tcz| png| hui| syh| upb| xmy| sjg| agp| pdy| hev| gep| dtf| zse| ils| ojs| zih| stq| erk| hrg| mml| lef| swc| smt| yob| ond| tka| ill| ktk| mos| gky| vgf| ptw| giu| ati| xsg|