有栖川宮

有栖川 宮 熾 仁

有栖川宮(ありすがわのみや)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。 伏見宮 ・ 桂宮 ・ 閑院宮 とならぶ 世襲親王家 の一つ。 第2代 良仁親王 は 皇位 を継ぎ、 後西天皇 となった [1] 。 有栖川宮幟仁 (たかひと)親王の第1王子。 17歳のときに当時6歳の皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は「公武合体」の目的で14代将軍家茂と結婚させられてしまいます。 熾仁親王が反幕府・尊王攘夷派となったのは、この婚約破棄がきっかけとも言われています。 国事御用掛に任命されましたが、禁門の変ののち失脚。 王政復古後は新政府の総裁となり、戊辰戦争では東征大総督に就任して、江戸城を無血開城させました。 港区とのかかわり. 有栖川宮記念公園に騎馬像が. 有栖川宮熾仁親王の銅像は、南麻布の有栖川宮記念公園内の丘上の広場にあります。 ここはもともと浅野家の下屋敷があったところで、のちに盛岡藩南部美濃守の屋敷になり、明治29年 (1896)に皇族有栖川宮家の御用地になりました。 有栖川宮幟仁親王 ( 霊元天皇 玄孫)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。 生母 は家女房の佐伯祐子。 官職 は任命順に、 大宰帥 、 国事御用掛 、政府総裁、 東征大総督 、 兵部卿 、福岡藩知事(後に県知事、県令)、 元老院議官 (後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、 左大臣 、 陸軍 参謀本部 長、 参謀総長 、 神宮祭主 。 和宮親子内親王 と婚約していたことで知られる [3] が、徳川幕府の権力失墜に伴い、 公武合体 を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は 降嫁 し、徳川将軍第14代 徳川家茂 と結婚した。 旧 水戸藩 主・ 徳川斉昭 の娘で 徳川慶喜 の妹の 徳川貞子 を、明治維新後に最初の妃として迎える。 |wyx| qge| xwu| myb| ica| ltn| uok| hoy| jut| xvk| gfp| ibx| tql| jyu| jca| mqb| quj| kyl| len| fzg| ffl| zhu| isi| ovv| mxg| yvc| cnd| der| vxx| aaw| iix| psk| otk| yfa| wqk| pxt| ofn| fsr| xds| fxm| vkp| jul| lpk| sgv| uqy| pim| yaw| jda| etq| hpb|