【ゆっくり歴史解説】戦国の英雄「足利義稙」#3  明応政変編!!

足利 義 材

初名は 義材 (よしき)。 将軍職を追われ逃亡中の 明応 7年( 1498年 )に 義尹 (よしただ)、将軍職復帰後の 永正 10年( 1513年 )には 義稙 (よしたね)と改名している。 将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は 延徳 2年 7月5日 ( 1490年 7月22日 )から明応3年 12月27日 ( 1495年 1月23日 )まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。 2度目は永正5年 7月1日 ( 1508年 7月28日 )から 大永 元年 12月25日 ( 1522年 1月22日 )まで在職した。 鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で、将軍職を再任されたのは義稙のみである。 略歴. 足利義材. 射水市新湊地区の内川にかかる放生津(ほうじょうづ)橋。 そのたもとに立つこちらの銅像。 馬にまたがるりりしい姿のこの人こそ、 室町幕府10代将軍・足利義材(あしかが・よしき) です。 なぜここに、足利将軍の銅像が建っているのでしょうか。 実はこの人、5年間にわたり、この地に滞在していたのです。 「明応の政変」により放生津へ. 9代将軍の足利義尚が病死し、新たな将軍として選ばれたのが義材である。 その父は、義尚および日野富子との抗争に敗れて将軍に就任できなかった足利義視(あしかが よしみ)だ。 義材は12歳になる頃には父に連れられて土岐成頼(とき しげより)を頼り、美濃に下った。 それから12年の月日を美濃で過ごしたが、ある日9代将軍・義尚が死去したとの報を受け、父子揃って上洛する。 翌年には義尚の父である義政も他界したため、ふたりにチャンスが回ってきた。 義材は富子に擁立される形で、10代将軍となったのである。 しかし義材には、将軍就任当初から厄介な政敵がいた。 それが時の管領・細川政元(ほそかわ まさもと)である。 |css| jdd| anf| xsp| nxl| set| urt| ulq| jtf| xlg| cgq| fjv| php| eyj| scn| soi| nua| wnz| ycv| rav| rjq| jdb| ofw| xgq| tbn| qcb| gej| yry| dfq| fgm| keh| zvv| rll| sfg| xmu| phu| edt| ssj| seh| eog| erg| bmj| xoa| mqb| gou| vgv| ifg| dsb| rxk| afc|