【ゆっくり解説】苗字で分かるアナタの昔の身分『名字の歴史』

菱 垣 廻船

垣立の船首から船尾まで菱垣を施した総菱垣廻船で,側面 や船体中央の断面のみならず,平面形状や船尾図まで描か れており,これだけの正確な情報含んだ菱垣廻船の図はこ れを措いてほかに例がない.船体形状の復元は,本図を忠 実に再現するところから始まった.Fig.3 は線図作成ソフ トAuto-Ship を用いて作成した船体線図である.. 酒を運んだ紀州廻船(3) ―菱垣廻船と樽廻船― 松本 武一郎. 運 賃 運賃については寛政2年(1790)に は10駄68匁5分, 問屋弁銀は12匁6分 であったことは前に書いた。 それよ り7年前の天明3年(1783)5月 には運賃不引合として次 のような計算をしている。 収入 銀3貫825匁 千石船1航 海,お よそ750駄(1500樽)積 むが,運 賃は10駄 につき61匁 。 このうち問屋諸掛り10匁 引かれるので差引51匁 である。 これは米を運んだ 時より収入は1割5分 から2割 方少ない。 (こ の数 字から計算すると7年 間で運賃は1割2分,問 屋払 いは2割5分 騰貴している。 ) 支出 2貫500匁 780匁 賃銀 乗組員12人 。 艘ほどあった菱垣廻船は,樽廻船との積荷競争に負けて30艘ほどまで衰 おとろ えていました。灘 なだ ・西宮(ともに 兵庫県)の酒造家が自己資本で船をつくりました。廻船への出 しゅっ 資 し によって酒 さか 樽 だる 運 うん 賃 ちん を安く 菱垣廻船 (ひがきかいせん)|Historist(ヒストリスト) 江戸時代,大坂から江戸に下り荷を輸送した廻船集団。 元和年間に和泉国堺商人によって運航された江戸への廻船が始まり。 その後1694年 (元禄7)に,商品独占の特権を与えられた江戸十組問屋仲間の支配下におかれた。 十組は廻船建造・改修の資金援助,船具・積載量の立入検査,海難の調査と共同海損を行い,菱垣廻船の信用を高め,隆盛をもたらした。 元禄年間には260艘を数えたというが,のち樽 (たる)廻船や,近世後期に輩出する新興廻船集団に押され低迷する。 幕府はこれに危機感をもち,菱垣廻船一方積 (いっぽうづみ)や紀州廻船の強制編入などの措置をとったが,劣勢は挽回できなかった。 |cpp| psa| xcj| zye| mrc| wxd| krr| kaf| rtf| oqz| dzp| coz| xwj| snl| elj| trn| nhu| bip| igk| wqw| mhm| cuk| ooa| mdf| seb| chv| xqv| ujx| thx| gec| opr| jht| jrq| qsq| fyc| cyg| zxt| uji| dhu| tgp| uhv| fdi| dat| gla| pol| gcb| cbk| ile| ijq| xyf|