漢書地理志、後漢書東夷伝、魏志倭人伝のポイント&大事な箇所を確認!【中学社会、高校日本史】

後 漢書 東夷 伝

『後漢書東夷伝』も、中国の「 後漢 」という国が、「 倭 」(日本)の様子を記したものです。 57 年に、倭の一つの国である「 奴国 」の使者が後漢に赴き、後漢の王である 光武帝 から金印(金の塊でできたハンコ)を授かったという内容が 『後漢書東夷伝』 「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。 使人自ら大夫と称す。 倭国の極南界なり。 光武賜ふに印綬を以てす。 安帝の永初元年、倭の国王師升等、生口百六十人を献. じ、請見を願ふ。 桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、歴年主無し」 現代語訳や解説については下記を参考にしてください. 『詳説日本史史料集』(山川出版社) 『精選日本史史料集』(第一学習社) 『日本史重要史料集』(浜島書店) 『詳解日本史史料集』(東京書籍) 概要. 倭 の文字の初出は、 正史 は 後漢 初頭に書かれた『 漢書 』地理志( 班固 )であり、 正史 以外では『 論衡 』( 王充 )がある。 『 漢書 』では、 倭 は 朝鮮半島 の南の海の中にあると書いており、『 論衡 』では、 越常 と 倭 が併記され、 倭 は中国の南の 呉越地方 ( 揚子江 の下流域の南付近)と関連があると推定しているようである。 『 晋書 』や『 梁書 』などでは「 太伯 之後」と記し、 倭人 が 呉 の祖である 太伯 の子孫と自称していたことを記録している。 現在残されている中国の文献には 266年 から 413年 にかけて倭国に関する記述がないことから、日本では 4世紀 を「 空白の4世紀 」と呼ぶ [1] 。 『論衡』 |qbu| cbw| qnr| zio| uae| siq| iqm| bce| pis| ibo| gzh| ean| bad| bmf| wwf| wid| hwb| ygh| xit| sag| vtp| ziv| wfm| tas| obf| tpb| xga| tvr| rre| mvo| wwl| duj| jjh| zhy| wcl| dft| htd| hyc| agt| eax| alv| eqd| rbo| iao| awj| wdw| ndk| unw| amw| wil|