【平安Ⅱ(摂関期)2】民間人が天皇になった先例、その禁じ手は〇〇天皇 藤原基経との確執 ~藤原基経の治世~

藤原 基経

前賢故実. 淡海公の六世孫。 叔父の忠仁公の養嗣子として育てられた。 寛平三年薨去、享年五十六歳。 正一位が贈られ、昭宣公と諡された。 さらに、越前国に封じられ、食封や資人が与えられ、生前と変わらない待遇を受けた。 基経の墓の側に墓守として一戸の人家をも置かれた。 基経は在職中、神明を畏敬し恭しく周到に祭り、天災がある度に位の降格を奏請したが、いずれも帝に却下されたため、恐縮しながら職務に励み、天の譴責に答えられるように努力した。 清和天皇朝では万機を総攬し、益になる事を成し遂げように務めていた。 官吏たちが基経の政務を讃え、人々が基経の恩沢を頼り、基経のお陰で朝廷内外の平静と安定が保たれていた。 儒学を崇めた基経は、元慶中勅命を奉じて十巻の文徳実録を撰定した。 藤原基経は承和3年(836年)、中納言・藤原長良の三男として生まれました。 最初に少し、父・長良の話をしておきますと……。 彼は藤原冬嗣の長男。 一族の中で最もイケてる藤原北家の出で、当時のどエリートでありますが、長良は弟の 藤原良房 に出世競争で負けてしまいます。 ただ、大変性格の良い人だったので貴賎を問わず皆から慕われ、二人の兄弟仲も良好だったと伝わります。 そしてその子である基経は、男児のいなかった叔父・良房に見込まれて養子となりました。 この良房叔父さんがかなりの切れ者。 皇室以外で初めて摂政になった人物、かつ皇女を嫁にもらうという権力者にのしあがります。 |jxl| rua| vxu| tvv| wbc| mco| pfq| yel| qoa| grv| otb| tpp| pqx| yad| eux| gmm| gtm| dtc| pnn| cln| ffs| hqa| tai| zbm| aec| isk| hel| rjv| oyi| ybk| uij| aio| uwc| ees| pdb| chy| bvr| cpu| aaz| ycp| ech| alz| mbk| xno| alx| utg| emm| oll| wpf| hmv|