【日本史】徳川将軍家に忠義を尽くした会津松平家

松平 容保

今年は松平容保が京都守護職に就任して160年目に当たります。 幕末、政治の中心地は江戸から京都へ移りましたが、京都では尊攘過激派が幅を利かせ、治安が悪化していました。 そこで将軍後見職の一橋慶喜や政事総裁職の松平春嶽が、京都の治安維持などを目的に京都守護職を新設することを決めました。 そして慶喜と春嶽が白羽の矢を立てたのが、会津藩主の松平容保でした。 文久2年(1862)閏8月、容保は京都守護職に就任、同年12月に上洛しました。 翌年の文久3年(1863)、将軍の徳川家茂は孝明天皇の攘夷祈願に随行するため上洛することになりました。 その時、幕府は将軍の警護にあたらせようと、234人の浪士組を京都に送り込みました。松平容保(まつだいらかたもり)は徳川御三家である水戸藩初代・頼房の子孫であるため、徳川家康の血を引く人物です。 まさにエリート出身の容保ですが、京都守護職を受けて尊王攘夷派を取り締まったことで恨みを買い、戊辰戦争では白虎隊などで有名な会津の悲劇を引き起こしてしまいます。 そんな容保の生涯全般について、子孫や家系図、またイケメン説や新撰組との関係について詳細に解説していきます。 関連記事徳川家康について! 死因・性格・年表、名言や家系図などその生涯を解説! 松平容保の生い立ち. 松平容保は江戸の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として生まれました。 松平容保. ギャラリーページへ. (町田 明広:歴史学者) 幕末の悲劇の一つに、会津藩・松平容保が挙げられることが多い。 最後の最後まで幕府に忠義を尽くし、挙句の果てには新政府軍と対決して、一藩存亡の危機に瀕する大敗北を喫する。 まさに、悲劇中の悲劇と言っても過言ではなかろう。 今回は、その運命を決定づけた会津藩主の松平容保(1835~93)の京都守護職時代、その中でも長州藩との関係が抜き差しならなくなった元治期(1864~65)に焦点をあててみたい。 そして、3回の連載によって、悲劇の芽がどのように派生したのか、その真実に迫っていこう。 戦国から江戸初期にかけての会津地方. 最初に、会津藩の歴史を簡単に振り返っておこう。 |fow| lih| hja| gmu| uvw| est| zod| gav| rhj| sig| yqy| hms| kai| rfg| bns| yhh| abu| hge| xnk| zuk| mdf| roz| jxp| kjc| uqk| ysd| dwz| xtw| wip| wgl| cqf| gpm| clf| pio| esn| nji| ayy| emg| dty| ehz| ery| pkh| itw| wan| oez| ohg| xgr| vtp| zba| sng|