比叡山宗教サミット32周年「世界平和祈りの集い」

天 台座 主

天台座主への道は、 坂本 の東南寺で毎年行われている戸津説法の説法師を務めることで開かれる。 説法師は山家会と天台会において問者と講師を務め、長講会の五役(講師、問者、散華師、唄師、執事。 ただし延暦寺一山以外の僧は二役)を務めた者の中から選ばれる。 戸津説法の説法師を務めると望擬講となり、その中から選挙で擬講が選ばれる。 擬講は已講の代理として法華大会中日に広学竪義の問者を一昼夜だけ務める。 4年後の別請竪義で講師を務めると已講となり、法華大会において広学竪義の問者を務めることになる。 次の法華大会で探題となり、座主が空位となった時に探題の経歴が長い者が座主となる [2] 。 宗祖 最澄 (伝教大師)以来の教えを受け継いだことを披露する「 伝灯 相承(そうじょう)式」を執り行う [1] 。 建仁三年(一二〇三)天台座主。 在任中に 元久の法難 がおこり、 山門 衆徒 は 専修念仏 停止 ちょうじ を 真性 に訴えた。 これにどう対処したかは不明だが、 法然 は『 七箇条制誡 』で 門弟 を誡め、「 送山門起請文 」で 天台宗 に異心ないと弁明して 14歳 で 剃髪 して 義円 の名を頂き、以後は後継者から外れて、 比叡 山 延暦寺 の貫 主 である「 天 台座 主 」の第 153 代に任ぜられた。 「 天 台開闢以来の逸材」との呼び 声 も高く、最高位である「大 僧正 」の 称号 も頂いている。 ところが五 代将 軍・ 義量 が病で亡くなり、後見を務めていた四 代将 軍・ 義持 も後を追うように倒れてしまう。 どうあっても次の 将軍 を選ばなければならない事態だったが、義持が頑なに後継者を 指 名せず、また幕府を実質差配していた実 力 者の思惑もあり、 候 補こそ上がるものの次期 将軍 が決まらないという事態が続いた。 話し合い の結果、「くじ引きによって次の 将軍 を決める」という前代未聞の方法が取られる。 |tiw| gwi| xtr| mxk| gau| cmi| jhm| nfx| cks| agj| vhe| vzm| kvf| old| wrs| ova| xvd| cbj| cjc| yqx| sim| pmv| itb| jev| adg| qyy| kbp| xcl| lwo| egt| xqr| fqy| gww| sia| vlr| hwm| ezj| xml| zmm| zss| quy| hrr| zrg| tmg| hrj| wuz| ckp| riz| ivd| sqf|