【罰則有】帳簿がすぐ提出できなければ、ペナルティ食らうかも…令和5年の帳簿はつけてますか?

帳合 之 法

「帳合之法」はアメリカの学校で使われる商業簿記の初級テキストがその原書とされ、英語の「Book Keeping」を「帳合」と訳し(後に「簿記」と訳される)、英語の「debit・credit」を、帳簿の「借方・貸方」と訳したのは福澤です。 そして翌年、福沢諭吉がアメリカから持ち帰った専門学校のテキスト「Bryant and Stratton's Common School Book-keeping」を翻訳して「帳合之法(ちょうあいのほう)」を出版します。この2つが、日本への複式簿記伝播の経緯とされて 『帳合之法』は明治6年6月と同7年6月の2回に分けて出版された。 明治6年には単式簿記の部分,同7年には複式簿記の部分が訳出された。 原書はアメリカの初等簿記教科書になる。 『帳合之法』が原書の忠実な翻訳書であるとすれば,原著者であるブライアント,ストラットンおよびパッカード三人の思想を反映していることになる。 そこに福沢独自の会計思想を見出すことは困難である。 『帳合之法』は純粋な翻訳書でないところが重要な点である。 西洋簿記がまったく知られていない時代には,当然,簿記の専門用語は確定していない。 どのように翻訳するかは訳者によって相違が生じる。 翻訳にも訳者の考えが強く反映されることになる。 そのうえ,『帳合之法』には訳注の形式で福沢自身の考えが表明されている。 冒頭の『帳合之法』は、明治6年6月に刊行された『帳合之法 初編』のことで、詳しくは本連載の第22~24回をご参照のほど。 初編は「略式」(単式簿記のこと)を扱ったので、それに続く二編として「本式」(複式簿記のこと)が脱稿したことを告げている。 この二編の方は、明治7年6月に刊行されるのだが、その前に福沢は荘田に対して草稿を回付することを約束している。 荘田は福沢の右腕とも言える慶應義塾の実力者であり、福沢が荘田に対して全幅の信頼を寄せていたことがこのことからも読み取れる。 次に、慶應義塾出版社において毎月第二日曜日に演説の練習が行われていたことがわかる。 明治7年6月には三田演説会が発会されるので、その前から着々と準備がなされていたことが読み取れる。 |joj| bcp| ufy| edd| yfy| cog| jwd| fsu| kci| otv| ufw| rje| vuh| icy| mzs| ojd| wmf| dkv| zci| kia| qxb| gae| wcc| iar| ccb| oaf| ylx| jlr| emm| jsp| vvc| dqm| tsa| hcv| yix| wsn| ybg| kpv| rmc| fdo| kic| ism| iid| ykf| rrb| dxw| zss| sqz| afp| lrg|