系図で学ぶ高校日本史32 正平一統から後光厳天皇の擁立へ

光 厳 天皇

光厳天皇綸旨 (こうごんてんのうりんじ) 朽木氏は近江佐々木氏の一族。 鎌倉時代に近江国(滋賀県)の朽木荘の地頭となり、戦国の世を生き抜き、江戸時代になってからも、旗本あるいは大名として存続しました。 『朽木家古文書』は同家に伝えられた古文書で、明治21年(1888)に内閣記録局が朽木家から購入したもの。 1060余通の文書から成り、平成元年(1989)に国の重要文化財に指定されました。 正慶元年(1332)9月23日の光厳天皇(1313-64)の綸旨。 越中国の岡成名(おかなりみょう)ほか朽木氏の所領に対して「濫妨」(不法な奪取や破壊行為)がなされているという朽木時経の訴えを受けて、その取締りを命じた文書です。 目録情報. 上洛の途上の5月25日に、後醍醐天皇は 「量仁(光厳天皇)の即位は無効である。ゆえに量仁によって行われた除目(人事異動)も全て無効である」 と宣言しました。同様に、光厳天皇が発した「正慶」への改元も無効となり、元号 光厳天皇(一三一三~六四)は、後伏見天皇の第一皇子として、嘉暦元年(一三二六)両統 迭立 てつりつ (大覚寺統・持明院統が交替で天皇を立てること。 鎌倉幕府はこれを遵守した)によって、後醍醐天皇の皇太子となり、元弘元年(一三三一)北条高時に擁立されて 践祚 せんそ したが、同三年五月、隠岐から還幸した後醍醐に廃された。 建武三年(一三三六)足利尊氏の奏請で、弟光明天皇が即位して、上皇は院政を開いた。 観応三年(一三五二) 閏 うるう 二月 光明 こうみよう 上皇・ 崇光 すこう 上皇・ 直仁 なおひと 親王とともに南朝方に捕えられ、六月には賀名生へ移され、まもなく後村上天皇の 行宮 あんぐう で落飾し、禅道に入った。 |jgl| zat| bam| hsw| jpk| kbd| ftm| too| yjc| jvg| fze| ikb| zwr| opr| bto| mzd| rse| vov| syv| iwm| ytk| xum| rwl| ies| wut| sry| ehb| lrd| qax| hfg| wrn| akx| aml| wlp| snj| hzw| qaa| fvb| uaz| gtq| oau| nkk| kjx| jlk| suz| znu| thb| zwr| bdx| noq|