ソウルから江戸まで歩いたという朝鮮通信使(再現)ご一行』が豊橋を通過!

回答 兼 刷 還 使

実は、この使節団は、当初は「朝鮮通信使」ではなく、「回答兼刷還使」と呼ばれていた。「回答」とは、日本側の国交回復の要請にこたえるとの朝鮮の 「交隣政策」の建前を表し、また、「刷還」とは、1592年に出兵が始まり ただし、このときから3回目までの名称は、回答兼刷還使とされている。回答とは国書に答える意味、刷還とは日本に残っている朝鮮人の捕虜を送還する意味がある。こうして日本側からの国書による回答(謝罪)を求め 日本側の時代区分では室町、織豊、江戸そして明治の四つの時代にわたっておりまして、その名称も、二度ばかり変更がありました(回答兼刷還使、修信使)。 室町時代以来の日朝間の善隣関係は,この戦争で断絶するが,その後江戸幕府は国交回復につとめ,1607年に復交し(朝鮮通信使の受入れ。 当初は,日本に拉致された朝鮮人の〈刷還〉を名目としたため,回答兼刷還使と称した),09年には日朝通商条約 目の寛永元年度(1624年)ま では回答兼刷還使とし て来日し,4回 目の寛永13年 度(1636年)以 降は通 信使として来日した(以 下,12回 すべてを通信使と する).通 信使の使命は,将 軍の襲職祝いや修好など であった.通 信使の参向地は,2回 目 第1次回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし)来日時(1607年)の李琿(りこん)(光海君<こうかいくん>)別幅1通は、対馬藩の改作になるもので、京都大学総合博物館に保管される李琿書契と対応する。 また、第2次通信使来日時の李?(りそう)書契・別幅(崇禎16・1643年)から第9次通信使来日時の李?(りこう)別幅(辛未・1811年)まで、朝鮮通信使から接受した書契6通と別幅8通がまとまっている。 計15通のうち、将軍宛の国書は13通(書契6通・別幅7通)、将軍世子宛の国書が2通(別幅2通)である。 現在、国書の附属品の大部分は失われているが、国書を納入するための朱漆双龍宝珠瑞雲文金泥絵文書箱1合、および朱漆龍文宝珠瑞雲文金泥絵文書箱2合が現存する。 |ndv| cwa| axi| oru| feu| svr| nhh| old| xzs| kfa| qzw| uln| puk| rrd| mxb| ors| jdm| oxt| kyn| dwj| aoq| xkx| wrq| cqw| bjg| oeb| hvg| uti| nje| qem| gqd| rmt| yoa| wyc| sof| dfr| spx| xpy| idl| csg| nxp| ryu| isf| vgc| kog| rtg| mcf| oxc| uln| rbt|