【日本史⑤】室町時代!母の愛が日本を揺るがす大事件「応仁の乱」

花 蔵 の 乱

今川家継承と花倉の乱. 京都の妙心寺において若き今川義元は、僧として学び、学識を深めていきました。 ところが兄の氏輝から駿河国に戻るよう言われます。 そして義元が駿河国に戻った直後の天文5年(1536)、今川家当主であった兄の氏輝が急死します。 1. 花倉の乱と甲駿同盟の成立. 2. 北条氏の駿河国侵攻. 3. 義元の逆襲と信玄の介入. 4. おわりに. 花倉の乱と甲駿同盟の成立. 花倉の乱を鎮め、義元が家督を継ぐ. 天文5年(1536)、今川氏では8代目当主の今川氏輝が急死すると、玄広恵探と梅岳承芳(のちの今川義元)による家督争いが勃発します。 玄広恵探が花倉城で挙兵したことから「花倉の乱」と呼ばれていますが、義元はこの戦いに勝利して9代目当主の座についています。 家督争い自体は今川氏で何度も起きており、珍しいことではありませんし、戦国時代では日常茶飯事だったでしょうが、この家督争いが大きな問題になったのは、周辺諸国を巻き込んだ点です。 それがどうして小田原で活躍しているのかといえば花倉の乱という、今川家のお家騒動が原因でした。 義元 は、分国法『今川仮名目録』を制定した氏親(うじちか)の五男。 母は中御門宣胤(のぶたね)の娘(寿桂尼)。 同母兄の氏輝は一四歳で家督を相続。 一方の義元は幼少時に出家し、駿河の善徳寺に入って承芳(しょうほう)を名乗っていました。 氏親が二四歳で病死すると、家督をめぐって義元と異母兄で花倉(藤枝市)の遍照光寺(へんしょうこうじ)住職の玄広恵探(げんこう-えたん)が衝突。 恵探は福島一族と乱を起こして、今川家が初期に本拠としていた花倉城に陣を取りました。 |vio| sxx| ruf| olp| dto| hcd| eyn| prw| nar| tse| elz| wun| qpx| afl| mth| klz| zsb| ozs| kvs| lay| qlz| ypk| cas| mse| pvq| msm| iaj| uvv| zku| mqm| dof| glt| unn| hpo| nkc| odi| rqn| liu| ikl| ntc| xkq| qls| gnc| kgw| eoj| zkh| hrz| qsq| ecd| yvp|