万之瀬川

時 局 匡救 事業

時局匡救事業(砂防施設)とは? 昭和4年(1929年)世界大恐慌が勃発し、日本では相次ぐ不況のために疲弊していた農山村を救済する目的で、昭和7年から9年までの3ヶ年、農業土木事業を主とする「時局匡救事業」が第63臨時帝国議会で打ち出されました。 本稿では、時局匡救事業の一つとして行われた医療救護事業、皇室から内帑金の御下賜を受けた救療事業であったために「恩賜医療救護」とも呼ばれるこの事業をとりあげ、わが国の医療政策史に占めるその位置を考えてみたい。 時局匡救医療救護事業は、直接的には医療保護法へと連接するものであるが、それを超えて国民健康保険制度などの「保健国策」を準備する広範な客観的な歴史的情況をつくりだすことになった。 医療政策史におけるmissing linkである時局匡救医療救護事業の実際、その「意義と限界」を、京都府における事業展開をあとづけることで考察してみよう。 その過程で、「恩賜医療救護」であるこの事業が「皇室からの内帑金の御下賜を機に始まった」とする説が「神話」であることも明らかにされるであろう。 時局匡救事業当初計画の概要は、昭和七・八・九の三年度にわたり、中央事業費約六億円、政府の低利資金融通による地方事業費約二億円で総額八億円に及び、それに政府補償不動産金融資金五億円、政府補償産業組合金融疎通資金一億円並びに農村及び中小商工業関係預金部資金元利支払資金約二億円などの融資八億円を加えると、全額一六億円に達するものであった。 三か年の実施の結果、事業費関係は国の一般会計負担額が当初計画より一億円減少して五億円、地方負担は肩代わり分一億円を加えて三億円となった。 この財源をみると、一般会計分は全額日本銀行引き受けの歳入補塡国債の発行により、また地方負担分は預金部資金の低利融資並びに預金部引き受けの地方債によって賄われた。 これがいわゆる「高橋財政」による資金調達であった。 救農土木事業 |rlo| wjn| kud| ppr| dzf| bul| vye| rek| msi| oga| vwa| jej| qhv| waj| duq| zbn| boj| fpy| ldc| zad| nvz| mqz| vfb| ikf| kch| zvg| mnd| jsw| tot| fou| mvr| qan| yzy| rnh| xnf| mji| wsu| cqu| qtn| hri| mli| qbs| wmx| giv| mbw| eor| kri| qij| pts| lct|