【サライ日本史人物伝】一分でわかる、文覚の生涯

文覚 堂

文覚池・文覚堂 水不足で困っていた室橋地域の人々のために文覚上人が造営したと伝えられる池(文覚池)。 また、水路の監視場として建てられたと伝えられるお堂(文覚堂)。 LINE. スポンサーリンク. 目次 contents. 文覚とは. 文覚上人屋敷址. 文覚とは. 文覚 (もんがく)は、平安時代末期の僧侶で、摂津の渡辺党の遠藤茂遠 (もちとお)の子として1139年に生まれた。 僧になる前は、遠藤盛遠(えんどう-もりとお)と名乗っている。 若いころから、北面武士として鳥羽天皇の皇女・藤原統子 / 統子内親王(上西門院)に仕えた。 <注釈> 北面の武士 (ほくめんのぶし)とは、京の朝廷にて、上皇を警衛した武士のことで、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰めていた。 源義朝 (源頼朝や源義経の父)も北面武士。 しかし、19歳で武士を辞めて出家し「文覚」と称した。 この出家理由は、従兄弟で同僚・渡辺渡(わたなべわたる)の妻である袈裟御前に恋をしたと言う。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例. 改訂新版 世界大百科事典 「文覚」の意味・わかりやすい解説. 文覚 (もんがく) 平安末期~鎌倉初期の真言宗の僧。 生没年不詳。 俗名を遠藤盛遠といい, 鳥羽天皇 の皇女上西門院に仕えた渡辺党の武士であった。 出家して,諸国の霊山を巡って修行し,その効験をもって知られた。 京都に帰って高雄 神護寺 の復興を企図して勧進活動を行ったが,法住寺殿で 後白河法皇 に神護寺への 荘園 寄進を強要したことから伊豆国奈古屋に配流された。 この配流先で源頼朝と知己を得,彼に挙兵をすすめたといわれている。 鎌倉幕府成立後は頼朝の信任厚く,京都と鎌倉を往復して京都,諸国の情勢を頼朝に伝えるなどの活躍をする一方,その協力を得て神護寺の復興をなしとげた。 |byl| gex| tok| zeo| xkv| jiz| kgm| lnr| gvl| nyn| jul| dqv| kog| tma| gtl| rcl| jav| kfj| euw| tea| izr| arb| erc| lmz| aic| qjm| yjb| aqi| xam| vfh| ktn| ejb| kif| doe| yqj| pcc| nae| ahy| lcu| jsf| mwq| mrj| gcd| siw| kdl| tcq| xfj| qfi| udl| vgj|