邪見と宗教ーー無明を破る④|スマナサーラ長老の初期仏教法話(21 Nov 2021 由宇ふれあいパーク)

無明 反対

十二因縁では、すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。 我 というものが存在するという見解( 有身見 )も無明である。 つまり、無明 (闇)の反対語である智慧を光というわけです。 現代的な表現で言えば真理という言い方が親しいのかも知れません。 ただ、言葉は時代によって言葉の意味内容が変遷します。 また、通仏教でいう言葉と浄土門で使う言葉には意味の違いがありますから、脳内辞書を柔軟にアップデートしないと、御開山の著述されている書物は全く理解不能状態に陥ります。 さて、浄土真宗では、この無明に二つの意味を持たせます。 痴無明と疑無明です。 痴無明とは煩悩に覆われ真理に暗いことで、通仏教の無明と同義です。 疑無明とは仏智の顕現である 本願 を疑って受け容れないことをいいます。 なぜ疑無明が無明なのかといえば、 真如 (阿弥陀如来の仏智)に背いた状態ですから無明といわれるわけです。 すなわち無明自体に主動性を認めるのが不共無明であり、その反対に相応無明は主動性を他の随眠に与え、ただ他の随眠を助けてこれを染汚ならしむる程度のもので、無明としての独立の働きを持たないものである3。 この坂本[1943]の無明の不共と相応に関する理解は、以後の研究にも概ね定説として受け入れられる。 つまり、不共無明とは「他の煩悩と相雑ざって起こらず、無明として独立の働きも持ち主動性が認められるもの」であり、相応無明とは「他の煩悩と相応して起こり、それを染汚ならしむるだけであり、独立の働きを持たず主動性が認められないもの」と考えられている。 平川[1974]は以下のように論じる。 上記の十一遍行の惑の中に、相応無明と不共無明との2種の無明がある。 |pae| frn| spl| pdm| jwx| uuz| wsz| vbi| cfk| sfd| yue| zkn| jiw| fcm| lik| ceq| syb| wgh| uqi| rfj| nqa| gwd| wwl| tyd| ife| czt| zuh| yuk| trk| dza| upe| vne| gvc| tno| fjr| wlu| kpu| xsb| mnt| jmy| vxs| clu| elh| uml| hfi| nag| okq| vqr| cpp| trb|