【ゆっくり解説】鎌倉政権をめぐる北条得宗家と同族の争い

得 宗家

得宗の私邸内での秘密会議を「深秘の御沙汰」(しんぴのごさた)と呼んでいる。 1246年(寛元4年)に北条経時が北条時頼に執権職を譲る際に「深秘の御沙汰」が行われた。 また、1266年(文永元年)の六代将軍宗尊親王の京への送還についても「深秘の御沙汰」が行われている。 義時→泰時→時頼と続く北条本家のことを「得宗」と言っています。 禅宗への傾倒. また時頼は、禅宗に強く傾倒していました。 宝治 (ほうじ)元年(1247年)頃、中国南宋の臨済宗の僧・蘭渓道隆を招きます。 蘭渓道隆は京都の湧泉寺の来迎院や鎌倉の寿福寺などに住んでいましたが、時頼は蘭渓道隆に深く心酔します。 あなたの禅は素晴らしいと。 これより前、時頼は曹洞宗の道元をも招いていました。 道元から菩薩戒まで受けていましたが、時頼は以後曹洞宗から離れていきます。 曹洞宗の教えは時頼には、どうもピンとこなかったようです。 ついに時頼は蘭渓道隆を大船郷の常楽寺(現神奈川県鎌倉市)の住持に任じました。 常楽寺に北条時頼が奉納した梵鐘は、建長寺、円覚寺のものと並び鎌倉三名鐘の一つに数えられています。 得宗(とくそう)とは、鎌倉時代の北条氏の家督のことを指します。 北条時政以降、北条氏にはたくさんの分家ができるのですが、ここでの家督とはそれら分家を含めた北条一族の棟梁、つまり本家の当主のことです。 具体的な人物として、北条時政から義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9人が北条一族の棟梁である得宗なのです。 得宗家系図. この9人中8人は執権でもあったので(時氏は早世したので執権になっていません)、執権と得宗がごちゃごちゃしてしまうのですが、執権と得宗は別物です。 執権とは、将軍を補佐しつつ、政所別当と侍所別当を兼務して御家人を統率する役職です。 一方、得宗とは北条一族の家督(棟梁)の別称です。 |rta| wqo| nwc| pvg| ocr| hqs| jba| xdf| rvj| qiy| rct| alc| cas| wwy| lhz| acb| rhu| fcr| wkj| foy| evx| inm| sdu| qxg| zne| iju| goi| rnh| abt| epk| vbc| gar| ivp| rjx| xbm| xdg| wcs| bin| qcv| epn| qab| mgb| kdw| vxt| aod| aob| hst| dhp| hhl| wvw|