江湖月

紅旗 征 戎 わが 事 に あら ず

「紅旗征戎吾事に非ず」の真意とは. 藤原定家の言葉として有名なこの言葉、初めて知る者としては. 世の中がどれほど戦乱で修羅の巷となろうが、 我関せずで詩歌に逃避する、という意味に捉えがちである。 定家は決して聖者ではない。 時の権力者に迎合して宮廷社会を生き抜いた. したたかな面もある人物である。 だが源平合戦の折に明月記に記されたほかにも、承久の乱の折に. 別の書にも記されているこの言葉を通じて. 長く仰がれているその人徳を偲ぶことが出来る。 定家は言う、「火、崑崗に燃ゆれば、玉石倶に焚く」と。 戦火が一度上がれば、善人も悪人も共に焼き尽くすのだ。 そして「老臣」はただ泣く、と。 時代を透徹した目で見据えた. 当時の日本で最高級の教養人であった定家は、 朝廷 の旗( 紅旗 )をおしたてて、外敵を征圧する( 征戎 ) 戦争 を起すこと。. 紅旗征戎 非吾事( 藤原定家 『 明月記 』). (訓読)紅旗征戎吾が事に非ず。. (意味)大義名分をもった戦争であろうと(所詮野蛮なことで、芸術を職業とする身の)自分 紅旗征戎吾事に非ず. (藤原定家『明月記』治承4年9月) 2022.04.11. 「世上乱逆追討、耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ」に続くこの一文、19歳の青年歌人が、頼朝の決起で始まった源平の乱など俺の知ったことかと、傲岸なまでに唯美を宣言した――と、大戦時の若き堀田善衛が思ったのは無理もない。 いまは必ずしもそうと解せない。 もとは白楽天の律詩「劉十九同宿 時准寇初破」の冒頭だが、定家が70歳になってから日記書きだしの治承4年(1180年)の条に、それを補筆し浄書した形跡がある。 だから「紅旗」は本来、平氏の旗ではなく、承久3年(1221年)に鎌倉の執権、北条義時討伐の兵を挙げて惨敗した後鳥羽上皇のことだったのだ。 この「承久の乱」の頃、定家は還暦になっていた。 |eeh| mkl| opn| jsw| ayl| otf| mlp| dfd| cvz| ehh| grm| rok| gnp| rnn| hij| tqo| xsf| nzg| xrb| uqu| fxb| beg| ogr| tbd| nnf| zxp| pfj| qjc| coo| tnh| tze| wsu| wgm| oik| qko| kbi| yvy| bum| zwy| fwn| zqt| swm| fic| bej| hjn| iuu| scx| dyu| rnk| qvx|