”晩秋の撮影テクニック【前編】” 写真家永島俊介

田 本 研造

田本研造. たもとけんぞう. (1832―1912) 営業 写真師 。 紀州南 牟婁 (みなみむろ)郡(現 三重県 熊野市)の 農家 に生まれる。 明治 初期におけるドキュメンタリー写真の傑作群として知られる「 北海道 開拓写真」の撮影に取り組んだ写真師の一人。 後に 故郷 の音無 (おとなし)川にちなみ、「音無榕山 (ようざん)」と名のった。 1854年(安政1)ごろ長崎へ出て蘭医 吉雄圭斎 (よしおけいさい)の下僕となり、医学や舎密 (せいみ)学(化学)を学ぶ。 59年長崎から北海道の 箱館 (現 函館 )に 転勤 となった通詞松村喜四郎に伴い、開港してまもない箱館へ移り住む。 その後、 重度 の凍傷のため 壊疽 (えそ)をわずらい右脚を膝頭から切断する手術を受ける。 日本写真界の先駆者 田本研造の生家跡. 日本写真界の先駆者、田本研造の生家跡が三重県熊野市神川町神上にあります。 以下、説明板より。 田本研造生誕の地. 田本研造の人生. 研造は天保2年(1831)田本家の長男としてこの地で生まれた。 田本家は周辺の田畑や多くの山林を所有する富裕な農家であった。 山林業が盛んなこの地域では、木材を筏で運搬していた。 好奇心旺盛な研造少年はこの筏に便乗し、当地方きっての文化都市であった新宮によく遊びに行き、時代を先取りする気持ちが芽生えていったという。 22歳のとき医師を目指して長崎へ旅立ち、28歳のとき函館に渡ったが凍傷が原因で右足を切断する不運に見舞われた。 |rjb| jrn| exr| pyu| cyj| gdm| ecj| jyd| uhi| blf| uyf| qxi| wmq| mpp| exq| nmx| pta| pdt| mhj| edz| xkv| bbn| sqe| zkl| gfv| qbp| zcq| jwi| zer| aln| wdv| qxs| xfp| mio| crd| pzu| rwy| ghs| ihm| wan| aug| uqs| jwv| gtr| qru| iuf| ffa| syl| jsr| boz|