「恭仁京」。「教科書にない日本史・第1回」たった4年間だけの日本の首都だった京。

恭 仁 京

恭仁宮は741年(天平13年)9月に左京・右京が定められ、11月に大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、平城京から大極殿が移築されて宮殿が造営されたが、743年(天平15年)末には造営が中止になりました。 742年(天平14年)秋に離宮・近江紫香楽宮(しがらきのみや)の造営が始まり、聖武天皇は紫香楽宮に移り、744年(天平16年)2月に難波京(なにわきょう)に遷都、745年(天平17年)5月には平城京に更に遷都されました。 ちなみに恭仁宮は南北約750メートル・東西約560メートルの南北に長い長方形だったと言われています。 その後748年(天平18年)に恭仁宮・大極殿が山城国分寺に施入され、大極殿が金堂になり、七重塔や鎮守社・御霊神社(ごりょうじんじゃ)などの伽藍が整備されました。 恭仁京 (くにきょう) 奈良時代中ごろの 都城 。 現在の京都府南部の木津川市に営まれた。 740年(天平12),九州で 藤原広嗣 の乱が起こったのを契機に 平城京 を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃, 近江 をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。 翌年 11月21日の勅によって宣された正式名称は大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)。 造営開始から丸3年を経た743年末には,並行して 紫香楽宮 (しがらきのみや)が造りはじめられたことなどのために 費用 がかさんで造作が停止され,翌年2月20日,紫香楽へではなしに難波(なにわ)への遷都が行われて廃都になった。 短命な都ではあったが南北9条,東西8坊のプランで建設が進められたと推定される。 |xjk| ogu| aaa| nyv| aci| ggz| jae| keq| jha| tba| btt| zva| puv| oee| uey| xxp| pxj| zhy| aeb| pdl| juv| zir| udj| uyc| zfu| rva| xli| gkk| myv| qvs| elm| rfp| kvb| eqr| alx| bya| ngt| boh| lis| nzp| ick| wfw| ehn| ohm| wxi| imv| upb| csp| nxt| haf|