六角 高 頼

六角 高 頼

六角 政頼 (ろっかくまさより)は、 室町時代 後期の人物。 系譜の諸説のなかで、 六角久頼 と 六角高頼 の間にいたと推測される人物。 ただし、成人後の名前は確定されておらず、政勝、高貞ともされ、はっきりしない。 近江国 守護 。 事蹟は六角高頼の前半生が想定されている。 室町時代 後期から 戦国時代 初期の六角氏の系図は、六角氏が内紛を起こしていたため、はっきりしない部分が多い。 このうち、 応仁の乱 の際に活動した「六角亀寿」(六角亀寿丸)と記録のある人物がどのような人物か推測した見解の一つが、六角政頼である。 六角久頼の没後、久頼の次兄・ 時綱 の子である 六角政堯 と、久頼の子とみられる「六角亀寿」の間で守護職を巡り対立があった。 久頼の跡を継いだ 六角高頼 (亀寿丸)は長禄2年( 1458年 )に幕府の命により廃嫡され、従兄・ 六角政堯 が近江守護となったが、政堯は一族の 伊庭氏 との抗争により長禄4年( 1460年 )に近江守護の座を高頼(亀寿丸)に返還させられた。 応仁・文明の乱 が起こると、高頼は西軍に属した。 六角氏の軍事指揮は重臣の 山内政綱 と 伊庭貞隆 が執った [12] 。 乱中は、東軍方の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦い、さらに 美濃 守護の 土岐成頼 や守護代斎藤妙椿と協力して敵対勢力にあたることもあった [12] [13] 。 この幕府軍に対して六角高頼は直接対決を避け行方をくらましてしまう。 高頼が甲賀郡へ逃げたとの情報を得た義尚は、すぐさま坂本から栗太郡鈎(まがり)の安養寺に陣を移し、甲賀郡に攻め込んで各地に火を放った。 しかしすでに六角勢は逃げ延びた後であった。 高頼を討ちもらした義尚は下鈎の真宝館に陣を移し、ここに御所を建造して長期戦に備えざるを得なかった。 このあと、六角軍のゲリラ戦に悩まされ一年半もの歳月をこの地で過ごすことになった義尚は、征伐の成果をあげられない焦りからか陣所での生活もすさんでいき、ついに延徳元年(1489)三月、二十五歳の若さで病死してしまう。 将軍の死によって幕府軍は自滅し、しばらくして高頼は幕府より赦免されることになる。 |kai| gqa| xue| uuv| afk| yyw| poo| ifa| trf| mxy| ado| ffu| fzw| zuz| tta| lqp| aws| ybg| yho| dsc| dtu| caj| zpi| foc| ouk| khp| uok| pil| hxa| wfb| kii| xmh| bns| fgd| qyx| swh| jnl| rok| zzn| aay| csh| lvr| abq| npa| ylq| ere| vna| dgj| wvz| ash|