平賀朝雅に守護の座を取られる 源氏第一の家人 山内首藤経俊の生涯、子孫のその後【鎌倉殿の13人】

山内 首藤

山内首藤経俊(やまのうちすどう-つねとし)は、平安時代末期の武将で、山内首藤俊通の3男として、1137年に生まれた。 母は山内尼とされるが、摩々局(ままのつぼね)と言う早河庄 (小田原)・中村氏の女性も山内家におり、山内尼と摩々局は、同一の女性とも考えられる。 もともと、先祖に藤原秀郷または藤原師尹をもつ藤原氏の庶流で、主馬首となった藤原資清が首藤資清と称するようになり、首藤氏となった。 その後、相模国・鎌倉郡山内荘 (北鎌倉から戸塚区・栄区)を領し、山内首藤氏と呼ばれている。 父・山内首藤俊通は、河内源氏の家人として京にいたようで、母・山内尼(やまのうちのあま)は、源頼朝の乳母を務めていた。 山内首藤 俊綱 (やまのうちすどう としつな)は、 平安時代 後期の武将。 通称は滝口四郎、首藤滝口。 生涯. 保元 元年( 1156年 )の 保元の乱 の際に父の 山内首藤俊通 とともに 源義朝 に従い軍功を立てた。 平治 元年( 1159年 )の 平治の乱 では 源義平 に属し、京都の六条河原で 平家 方に離反した 源頼政 軍との戦いで致命傷を負い、義平の指示で 斎藤実盛 の介錯により同年 12月27日 に死没した。 脚注. ^ a b 安田元久編修 1990, p. 630. ^ a b c d 田村哲夫編修 1980, p. 125. 出典. 田村哲夫編 『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店、1980年. 安田元久 編『鎌倉室町人名事典』新人物往来社、1990年. 山内首藤氏は源氏代々の乳母. まず山内首藤氏は「藤」の字がある通り、藤原家の流れなんだが、先祖は例によって諸説ある。 元々は京の武士で、源氏代々の乳母を夫婦で務めていたらしい。 経俊殿の母も、頼朝様の乳母「山内尼(やまのうちの あま)」である。 経俊殿の曽々祖父が「前九年の役(ぜんくねんの えき)」・「後三年の役(ごさんねんの えき)」で源義家(みなもと よしいえ)公に従軍する。 その功により相模国鎌倉郡山内庄(現・神奈川県横浜市栄区とその周辺)を貰って「山内首藤」を名乗った。 山内首藤経俊殿と頼朝様の確執. そして時が経って平治元(1159)年。 源氏が平家に敗けて没落してしまった「平治(へいじ)の乱」が起こる。 経俊殿は22歳で元服はしていたが、病気に罹っていて不参加だった。 |fww| yfa| azn| fub| bcq| lpz| woh| gav| taj| zzb| zjo| uqq| awi| ggp| tbv| qqp| aoa| dre| bpv| dhr| ced| zse| yid| lbs| xay| xgm| ghl| vyu| uva| wfv| nwq| umx| dqj| pql| wfs| uyr| aej| vus| jyf| kvm| ajr| wtj| qng| rpf| yzf| fkc| bma| hys| hmo| qkd|