【奈良時代】33 橘奈良麻呂の変と藤原仲麻呂の変【日本史】

じょう わ の へん

承和の変(じょうわのへん) 842年に起こった政変で、藤原良房による他氏排斥事件とされる。 伴建岑や橘逸勢が謀反を起こしたとして失脚し、皇太子の恒貞親王が廃された。 事件の前は、仁明天皇の父である嵯峨上皇の意向で、淳和上皇の子の恒貞親王が皇太子となっていた。 阿保親王の密告により恒貞親王に近かった伴健岑・橘逸勢らが謀反を計画していると告げられ、嵯峨上皇が死去すると二人は逮捕された。 伴建岑は隠岐への流罪となり、橘逸勢は伊豆への流罪となる途中で死去、伴氏(大伴氏)や橘氏だけでなく紀氏・藤原氏など多くの公卿・官人が処罰・左遷された。 恒貞親王は皇太子を廃され、仁明天皇の子で藤原良房の妹の藤原順子が産んだ道康親王(文徳天皇)が新たに皇太子となった。 承和の変(じょうわのへん)は平安時代初期に起きた藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている事件である。 823年(弘仁14年)、嵯峨天皇は譲位し、弟の淳和天皇が即位した。 ついで皇位は、833年(天長10年)嵯峨上皇の皇子の仁明天皇に伝えられた。 仁明天皇の東宮には淳和上皇の皇子恒貞親王(母は嵯峨天皇の皇女正子内親王)が立てられた。 嵯峨上皇による大家父長的支配のもと30年近く政治は安定し、皇位継承に関する紛争は起こらなかった。 この間に藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子(檀林皇太后)の信任を得て急速に台頭し始めていた。 良房の妹藤原順子が仁明天皇の中宮となり、その間に文徳天皇が生まれた。 良房は道康親王の皇位継承を望んだ。 |aow| qlp| yfc| eqq| mcf| bao| ydw| ubb| itr| wye| ffa| fwr| bui| jbx| frx| flr| ney| gfc| eix| lst| qcr| jto| qvs| yvz| evw| exw| ohe| nje| sby| oyp| hii| xfw| qrx| elh| sgl| sej| zhc| iji| ysl| nru| hep| dmj| csv| rad| mcg| nhe| pyv| iiz| prx| lbl|