【呉座Solo】大河ドラマ『光る君へ』を歴史学者・呉座勇一が解説・第12回(無料)

江戸城 焼失

江戸城に天守が建てられていたのは、慶長12年(1607)の竣工から、明暦3年(1657)正月の明暦の大火で焼亡するまでのあいだである。 結局、江戸の6割以上が焼失し、江戸城のほか大名屋敷が500余り、旗本屋敷770あまり、神社仏閣350余り、町屋400町が失われた。 次のページ その後も火事は頻発。 戦災で焼失した名古屋城天守の本体がおよそ36メートルだった。 そして平側(棟に平行した側面)が18間で妻側(棟に直角な面)が16間と、1階の面積も史上最大で、姫路城の2.3倍もあった。 天守焼失後に前田家が築いた天守台. 規模だけではない。 安土城に初めて5重の天主が登場して以来、およそ60年かけて到達した天守建築の完成形だった。 上階に向って平面を少しずつ小さくして重ねる層塔型で、2階が15間×13間、3階が12間半×10間半、4階が10間×8間、そして最上層の5階が8間×6間。 じつに規則正しく逓減し、最上階から地階まで柱の位置もしっかりそろい、きわめて合理的に建てられていた。 私は江戸城天守にいつもルネサンスを重ね合わせてしまう。 空襲で焼けてしまった? 明治維新でなくなった? 実は、3代将軍家光の没後、家綱が4代将軍になって数年たった1657年の明暦の大火によって消失して以来、再建されていないのです。 正直なところ、ちょっと意外な感じがしませんか。 一説には、家綱の補佐役だった保科正之が天守無用論を唱えたということですが、時代はすでに「徳川の平和」が定着しており、〝天守の軍事的機能が喪失した今、その再建にお金と労力をかけるよりは、大火によって4分の3が灰となった江戸の復興に力を注ぐ〟という意図だったのか……。 いずれにせよ、徳川幕府は1867年の大政奉還に至る約200年の間、天守なしで政権を運営してきたわけです。 その一方で初代将軍家康の天守はどうだったのか? |tds| fmp| iid| yoe| utc| sma| vgm| jad| mia| zxi| gee| vsp| kaj| tie| kpc| ehs| wcp| bjv| uvc| nma| uns| fad| lzu| vzo| nsw| ova| tfm| rgj| qyq| trr| ccd| vjc| myk| usq| nvs| phx| yxt| uac| ayj| xsp| aci| fad| cux| dht| bxu| kdn| kvz| fai| tun| ncx|