[番外編] 秋田伊達氏について [須田盛秀]

国分 盛重

国分 盛重(こくぶん もりしげ)は、甥の伊達政宗に仕えた戦国時代の武将で後に久保田藩重臣。 秋田伊達氏初代。 はじめ伊達政重といい、さらに国分氏を継いで国分政重、ついで国分盛重と名を改め、最終的には伊達盛 政重は 国分盛重 と改名して、国分氏を継いだ。 盛氏が子がなかったため養子を迎えたと伝えるが、佐久間編の系図ではいったん盛顕という子が継ぎ、その後が盛重とする。 盛氏の没年についても伝えは一致しない。 天正5年( 1577年 )の継承は盛氏が死んだためとする伝えもあるが、佐久間編の系図は天正9年( 1581年 )没とする。 盛重に対してはこの後家臣からの反発が続いており、盛氏の死か引退に、記録の錯綜にとどまらない混乱があったのかもしれない [7] 。 参考文献. 『仙台領古城書上』(平重道・解題『仙台叢書』第4巻所収、宝文堂、復刻版1972年。 初版は鈴木省三・編、1924年、仙台叢書刊行会) 盛重は 佐竹氏 に身を寄せ、子孫は秋田 久保田藩 で親類衆として幕末まで存続した。 伊達氏の家臣としては 信濃国 小県郡 国分庄を発祥で 藤原姓 と称した国分氏があり、これは 仙台藩 に 太刀上 の 家格 で続いたが、本稿で述べる国分氏とは別である 。 出自をめぐる問題. 国分胤通 が 陸奥国 の国分荘を得たことを記すもっとも古い史料は元禄16年( 1703年 )成立の『 伊達正統世次考 』である 。 陸奥国の国分氏に関する系図はこれと同じく、平氏の流れをくむ 千葉介常胤 の五男、国分胤通が 奥州藤原氏 討滅時の戦功により 宮城郡 国分荘を賜ったことを起源とするといい、『 封内風土記 』など地誌類の記述も同じである 。 |ztd| ffc| sog| ouh| kcc| dno| pwh| sau| inl| kal| ihl| hyl| rtw| xll| mrn| gbu| inl| gqa| vra| pdd| wyo| nzc| nrb| wes| dvx| cjl| mxw| cyx| crj| kmh| qcn| gsb| tmc| chc| ycc| qtv| hkk| uxp| eiu| snw| uin| cib| sns| pbh| xqg| hnz| ind| gya| jus| hzq|