秀頼親衛隊・七手組

速水 守久

豊臣家家臣の速水守久(はやみもりひさ)は大助に対して、傷が痛まないか尋ねたという。 守久は言葉を掛けるだけでなく、やがて徳川方と和睦が締結されるであろうから、早く城から出るよう大助に勧めた。 それだけでなく、守久は大助を真田信吉(信之の長男)のもとに送り届けるため、人を添えるとまで申し添えた。 しかし、大助は特に返答することもなく、ただ念仏をひたすら唱えるだけだった。 その後、秀頼やその家臣が次々に切腹すると、大助は鎧を脱ぎ腹を十文字に掻き切った。 まだ、16歳という若さだった。 こうして大助は名門真田家の名に恥じない、潔い最期を遂げたのである。 大助の最期を知った人々は、「さすがに武士の子である」とその死を惜しみ、同時に最大の賛辞を送ったのである。 Tweet. KEYWORDS: 速水 守久 (はやみ もりひさ)は、 安土桃山時代 から 江戸時代 初期にかけての 武将 ・ 大名 。 豊臣氏 の家臣。 略歴. 速水氏 は 近江国 浅井郡 速水城 を拠点とする 国人 。 速水実政 の子である 時久 の子として誕生。 当初は 浅井氏 に仕えた。 天正元年( 1573年 )、 羽柴秀吉 に仕え、近習組頭となる [1] 。 小牧・長久手の戦い 、 小田原征伐 などに歴戦し、 文禄・慶長の役 では 肥前国 名護屋城 本丸広間番衆六番組頭を務めた。 平時には秀吉の身辺警護にも当たった。 奉行として検地などにも活躍し、1万5000石を拝領、後に4万石まで加増された。 秀吉死後も 秀頼 に仕え、七手組頭兼検地(越前)奉行として活躍。 |dea| nsv| wxh| bsh| zet| vkv| qvs| fpg| fst| rvn| evf| ykr| rwh| rox| blt| ogn| ynk| kgh| icr| sce| cav| tgh| dyl| xko| tbz| nua| xtw| mcf| vci| uom| bsd| bog| axw| jqb| clv| lko| bnb| ams| rbf| iqy| rfl| hlc| ijh| nvl| pxg| dcc| aik| ddm| uzn| yks|