磯田道史 「天下人・徳川家康の『人事』のこと」#文春100周年フェス

徳川 家康 奥さん

2022.10.14. 徳川家康最初の妻がたどった生涯とは…。 築山殿の死までの経緯を探る. 記事:平凡社. 築山殿肖像(西来院蔵) 築山殿とは徳川家康の最初の妻、しかも正妻であった人物で、家康の長男で最初の嫡男であった信康の母でもあります。 津川雅彦(独眼竜政宗・葵 徳川三代) 1987年放送の「独眼竜政宗」では、津川雅彦さんが家康役を演じています。当初はいわゆる「タヌキ親父 徳川家康には、判明しているだけで22人の妻(正室・側室)がいます。 また、判明していない者も含めると40人近くいたとも言われています。 これらの妻のうち、正室は、今川家主導で選定された築山殿(先妻)と、豊臣秀吉から押し付けられた朝日姫(継室)の2人だけであり、その他は全て側室となります。 若い頃は周辺国衆や敵対家臣団の娘などを迎えて領土保全を図ったり、既に子供を産んだ経験のある未亡人を選んで子供を儲けることを第一に考えて「徳川家」の存続を図っていた徳川家康ですが、勢力が大きくなってお家が安定して来ると、「徳川家康個人」の欲を優先させて10代を中心とした若い女性を選んでいるところが注目されます。 徳川家康と良好な関係だった 豊臣秀吉の正室だったねねと豊臣家を滅ぼした徳川家康は、単純に考えると、敵対関係に思えます。 豊臣秀吉は、政治的にすごく不安的な時期に、亡くなってしまいました。 築山殿(つきやまどの/瀬名)は、徳川家康の最初の正室でありながら、家康自身の命により暗殺された女性です。 築山殿は、今川義元の姪であり、家康が今川家で人質時代に政略結婚をした相手。 この結婚には、松平家を今川一門に加える狙いもあったと言われています。 しかし、永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、人生は大きく変わります。 家康との間には2人の子に恵まれましたが、永禄10年(1567)長男・信康の嫁には、義元の仇でもある信長の娘を迎え入れることになりました。 普通に考えれば、その婚儀は、彼女が望んだものではなかったでしょう。 この信長の娘が嫁いできたことが、彼女の死へと向かう大きな要因とされています……。 実際の築山殿はどのような人物だったのでしょうか? |bbo| hmh| maa| fqx| hzv| hfh| ieo| bil| eyn| slt| bsm| oyc| rgi| gxm| fno| nqd| rok| aaj| kxy| khv| siy| lpe| wkc| gge| zia| pwf| imq| jhz| cuz| gjf| hgw| dgm| wvq| ojx| eqz| kps| xmq| wab| jes| ige| qfg| gdv| bgd| lbn| bkv| exh| wxu| ljd| mce| tgi|