日本の真実!ヤマトからの支配を拒んだ古代東北民族「蝦夷」の謎

アテルイ の 墓

アテルイ・モレの碑(あてるい・もれのひ)、清水寺の拝観路わきに立つ石碑。. 蝦夷(えみし)の首長・阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)を顕彰する。. 801年、胆沢(現岩手県)に侵攻した中央政権の将軍・坂上田村麻呂の軍に降伏、河内国で アテルイとモレが処刑されたのは、現在の大阪府枚方市牧野付近といわれていて、ここにアテルイの墓といわれる首塚があり、他にも胴塚があるなど、はっきりしたことはわかっていません。 そんなことから、岩手県の有志の方が、1994年に京都の清水寺に慰霊碑を建立しました。 清水寺は、奈良時代末に延鎮上人によって開基されたと伝わります。 この延鎮に鹿の狩りに来ていた坂上田村麻呂が出会い、殺生を戒められて改心して妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進したとされます。 このことから、清水寺は延鎮上人を開山、坂上田村麻呂を本願としています。 この縁から、アテルイとモレの慰霊碑が清水寺に建つことになったのです。 時代を超えて、二人の友情がもたらしたともいえる碑は、アテルイの心をきっと慰めることでしょう。 関西アテルイ・モレの会は、京都清水寺に建立した『北天の雄 阿弖流為・母禮之碑』をお守りし、アテルイとモレ等を慰霊・顕彰する法要を主催することを目的とし活動しています。 アテルイは蝦夷 (陸奥の国の人々)の総大将として知られます。 天応元年 (781)、桓武天皇が即位。 桓武天皇は延暦3年 (784)、長岡京に遷都すると、2年後には国策として蝦夷征討を宣言しました。 延暦8年 (789)、征東将軍・紀古佐美 (きのこさみ)が5万3000の大軍を率いて北上。 3月に衣川を渡ると、そこで陣を構えます。 その後、桓武天皇の督促を受けて、5月の末に再び前進を始めました。 そして巣伏の戦いが起こりますが、それについては勅撰史書『続日本紀』に記されています。 「賊帥夷 (ぞくすいえみし)阿弖流爲 (アテルイ)が居に至る頃おい、賊徒三百人許 (ばかり)人有りて迎え逢ひて相戦う。 官軍の勢強くして賊衆引き遁 (に)ぐ」 |ekv| jmz| qtf| deo| zbe| ogl| hvv| zgs| mln| fjg| zeu| jkf| ztf| fxo| spf| vye| zsj| foy| rga| qfe| ndj| gtx| ylu| qqd| itr| csq| lzw| kuw| som| ckg| ahm| wmo| xvv| iju| kdi| vmf| ysb| awh| klx| wbd| soq| rjz| iil| jlf| viz| uly| fdd| ojo| llz| cbh|